ことば, あるいはそれに代わりうるもの

よわいとされる人びとの歴史を研究する学生のことばノート. 関心は移民史や労働組合史, 社会福祉など.

ことはじめ 書くことと, 読むこと

 人生においてある一点から, わたしにとって書くことは大きな意味を持たなくなってしまっていた. それは, 鉛筆をすり減らしながら (奇特なことに, わたしはいつも鉛筆でしかよい文章が書けなかった) 過ぎていく時間を忘れて, 大学ノートを毎晩書きつぶす生活を送っていた頃の自分にはおおよそ見当がつかないものであるに違いない. そして, それは読むことに関してもいえる. その頃傾倒していた作家の作品が本屋に並べば全て買い占めて, 呼吸するように生きる世界をスイッチできていた人間と, するりとこぼれ落ちそうな自らをようやく湛えているいまの自分自身が, およそ同じ生命の延長であるということはにわかには信じがたい. 

 以前から自らのライフヒストリーを見つめ直すということを, 生きてゆくうえでの長期的な目標として捉えていたのだけれど, それにはこの問題を避けて通ることはどうにもできなかった. 書くことと, 読むこと. わたしを醸成したふたつの物事に向き合わずして, わたしは自らを顧みることはできるはずがないのだった. 

 そうして, 自らの来歴と, 書くことと読むことの関わりについて, できるだけ丁寧に記した原稿を「ことば, あるいはそれに代わりうるもの」と名づけた. 短い文章を数ヶ月かけて編む過程で, わたしは以前感じていた, ものごとを創りだす苦しみと痛みを追体験し, 何度も粗い紙やすりで全身を撫でられるような感覚に襲われた. 1枚, また1枚と書き進めていくたびに, 書いている, 書いてきたということを無かったことにしたいという感情に苛まれた. それでも息を浅くしながらなんとか書き上げたのは, わたしが自分自身を知ってほしいと思うような他者に出会ったときには, そのひとにこの原稿を提示しようと考えていたからだった. しかし, 現実というものは非常によく作り込まれているので, わたしが自分自身と他者の関わりについて考え直すきっかけになるひとが目の前に現れた頃, その原稿は跡形もなく消えてしまった. 正確にいえば, 執筆に使っていた, 10年近く愛用してきたMacBookがある日突然動作しなくなったのだ. わたしは, 自らが価値を見出すであろう文章は, 普段使っているMacBook Airではなく, 持ち運び用とは到底思えない乳白色のMacBookで書くと決めていたのだった. そうして, わたしがかつて手がけた翻訳や, その他の文章も参照することはできなくなってしまった. どうやら, なくしたいと思っているものはなかなか手から離すことはできないのに, なくしたくないものに昇華したとたんに, ふっと指のすき間から静かに落ちてしまうのは, 様々なことに共通しているらしい. 

 そういうわけで, ハードディスクだけでもなんとか救えないだろうか, などと素人考えを巡らせていたのだが, 1ヶ月程度を経て, 新たなプラットフォームをつくり文章を記していく手法をとっても良いのではないかという考えに至り, ブログを開設することにした. 今までこのような形態で自分の文章を公開することはなかったので, 若干の抵抗を感じている部分もないわけではないのだが, 書くことと読むことについて, そしてことばについてわたし自身が学び考えることを残す場所として続けることができればと考えている. 

 しかし, この場所を訪れて散々わたしの個人的な話を読まされるというのも, なかなかの苦痛であると想像されるので, わたしが提供しうる限りの社会的に有益とされる傾向にある情報 (主に経験に基づいているので注意されたい) も適宜共有したいと思う. 主に第2言語, 第3言語習得や英語, スペイン語習得, もっとプラクティカルにはTOEICやらTOEFL, DELEについて, もしくはメキシコシティでの暮らしや仕事について, 気が向いたら記そうと考えている. 現在勉強中の領域については, これから検討することにしたい.

 

それでは, どうぞよしなに.