ことば, あるいはそれに代わりうるもの

よわいとされる人びとの歴史を研究する学生のことばノート. 関心は移民史や労働組合史, 社会福祉など.

動詞ser/estarあるいは幸福についての一考

 スペイン語というのは厄介な言語だねえ, と生徒さんの口からこぼれることも多々あるのだが, その理由にいわゆるbe動詞が2種類存在し, それらを使い分ける必要性があることにある. 以下の1段落はスペイン語について全く知らないひとに向けて説明的に記すものであるから, スペイン語について多少なりともご存知の方は飛ばし読みしていただいて構わない. 

 

 

 スペイン語でbe動詞にあたる動詞にはserとestarがある. このふたつの使い分けについて, Yolanda Carballera CotillasとMaría Ángeles Sastre Ruanoによると, 

動詞serは主語について明示するとき, 職業や性格, 特徴について明示するときなど, 主語の恒常的な性質について言及する. 色や質量, 国籍, 宗教, 名称などにも用いられる. (1991)

とある. ひるがえって動詞estarは, 動詞serがもつ恒常性をもたない. 

動詞estarは我々が変わりうると想定する, 変遷の結果である一時的なある一点の状況を表す際に用いる. (1991)

 つまり, このbe動詞ser/estarの運用は, これらの原則にのっとって行われる.

 

 

 さて, メキシコに「留学」しているという (言語は意味拡張されるので, 学生であるもしくは学術機関に所属することを目的としない渡航であっても留学という語を用いるようになったのであろう. わたしが以前知らなかった意味拡張のひとつであることは間違いない) AKB48入山杏奈氏が, 自身のTwitterで "estar feliz" という表現をしばらく使っていたのだが, ここ最近になって "ser feliz" というスペイン語文法として正しい表現を用いるようになっていることに気づいた. この記事は, 入山氏の文法の粗を探すためのものではないが, このように初学者による誤用が起きやすいとされる形容詞feliz (幸福な, 幸せな) がなぜ動詞serをともなうのか考えてみたい. 

 

 すでに議論し尽くされたトピックであるように思われるこのテーマは, "estar feliz" も誤用ではないという, やや御都合主義的な着地点を見いだしつつあるかのように思える. また, 形容詞felizはestarと一緒に使えない, と強引に覚えてしまうこともできる. しかし, そもそもfelizというのはどのような状態なのかを捉え直すことによって, このテーマの本質により近づくことができる. 私たち日本語母語話者は, 日常生活において気づかないうちに「幸せ」や「幸福」という単語を比較的身近に運用している. 例を挙げると, グルメ番組のレポーターが美味しいものを口に運んだ時には「幸せ〜」, 交際相手にプロポーズされても「幸せ」である. しかし, 同状況のスペイン語の文脈において必ずしもfelizが使用されるとは限らない. 例えば, 「嬉しい」「満足している」といった意味の形容詞contento/contentaが用いられることは多いように感じられる. もちろん, この場合動詞はestarだ.

 このような用法の違いの原因として, 形容詞felizは日本語に翻訳されうる結果の単語よりもさらに深層的な意味合いを持っている可能性があるということが挙げられる. スペイン語においてはestar contento/contentaの瞬間が非常に多く集合した形態がser felizであり, ひとつずつの物事は「変遷の結果である一時的なある一点の状況」にすぎない. しかし, その連続性がそれらの集合をser felizと読み替えるのである. つまり, 幸福もしくは幸せは画定されうる状況ではなく, それらが連続している時間軸をさす.

 わたしが自らの幸福について自問するとき (極めて稀ではあるが) , 真の幸福とはどのような要素を持ち得るのか考えることが多い. 多くの場合, 幸福はある一定の時間のなかでその時々では必ずしもcontentaではなかった事象の数々を内包する. しかしそれらを包括的に眺めた時にその集合をfelizと形容できるのは, いくつかの決して読み替えることのできない苦痛が, それをまさに幸福たらしめていると知っているからなのだ. まだらな幸福を許容し, そしてその色斑こそが幸福であると知る人は, もしかすると幸福の本質の輪郭を捉え始めているのかもしれない. 

 

参考文献

Yolanda Carballera Cotillas y María Angeles Sastre Ruano, 1991, "USOS DE SER Y ESTAR. REVISIÓN DE LA GRAMÁTICA Y CONSTATACIÓN DE LA REALIDAD LINGÜÍSTICA".