ことば, あるいはそれに代わりうるもの

よわいとされる人びとの歴史を研究する学生のことばノート. 関心は移民史や労働組合史, 社会福祉など.

ケアする, <よわい>人びと

 ことの発端は, 以前に社会福祉施設でともに働いた同僚でありとても親しい友人が, 闘病の末にこの世を去ったことにある. ここでは, 彼女の生涯について書きしるすことはしないし, わたしと社会福祉のつながりを彼女がどのようにつくったのかについても言及するつもりはない. 彼女が存在しない世界にわたしたちが存在して数週間が経つが, わたしの中ではある程度の考察の過程があり, そこでわたしに起こったいくつかの感情や思考の経過を書き残そうと思う.

 

 わたしたちは, メキシコシティに本拠地をおく社会福祉法人が運営する自立支援施設で働いていた. 日本とは様々な面で制度が異なる国ではあったが, ある者は心理士として, ある者はコーディネーターとして, ある者は何でいるのかよくわからない外国人として (わたししか該当者はいなかったが) , 子どもたちを「ケア」していた. 実際, 「セラピー」の部分は, 提携している心理療法士が外部施設で行なっていたので, わたしたちは「ケア」をしていた. と, 少なくともわたしは思っていた.

 

 しかし, 「ケア」というのはむずかしい.

 

 「ケア」と「セラピー」について, 東畑開人氏はつい最近刊行された著書「居るのはつらいよ ケアとセラピーについての覚書」でこう記している.

 

... ケアとセラピーは人間関係の二つの成分です。傷つけないか、傷つきと向き合うか。依存か自立か。ニーズを満たすか、ニーズを変更するか。人とつきあうって、そういう葛藤を生きて、その都度その都度、判断することだと思うわけです。だって、人間関係って、いつだって実際のところはよくわからないじゃないですか。だから、臨床の極意とは「ケースバイケース」をちゃんと生きることなんです。
 そういう意味ではね、この二分法は敵と味方を分けるためにあるわけではないんです。そう、二分法は世界を二つに分けて、そのあいだに高い壁を築くためにあるのではなく、曖昧模糊とした世界の見通しを、少しでも良いものにするためにある。 (東畑, 2019)

 

  詳しくはぜひ本書を手にとっていただきたいのだが, 東畑氏はとあるデイケアに勤務しながら「ケア」と「セラピー」について見つめなおすことを強いられることになり, そこで両者となまなましく対峙する. 

 「傷つけずに依存関係を構築しニーズを満たす」とまとめると, 「ケア」は「セラピー」と比較するといたって簡単なことのように感じられるかもしれない. しかし, 「ケア」はときおり, とてもむずかしい課題として行為者の前に提示される. わたしたちは, 「ケア」ってこれなのだろうかという疑問をつねに抱えながら, 子どもたちと向き合う. ある者は心理士として子どもたちを傷つけない声がけを昼食時におこない, ある者はコーディネーターとして社会的ニーズを満たすために奔走し, ある者は何でいるのかよくわからない外国人として, 事務室のきしむ椅子に座りそこに居る. そういうケアを, わたしたちは24時間子どもたちに提供していた. 

 

 しかし, 「ケア」というのは相互的だ.

 

 ケア関係は, 相互的であり, 円環的な時間の中に生じているとわたしは考える. 「円環的な時間」とは前述した東畑氏の言葉だが, <つよい>人びとではなく<よわい>人びとがおのれの弱さを自覚しながらケアにあたる状況を, 鷲田清一氏は「ホスピタブルな光景」と名付けており, そのなかではぐるぐるとめぐる, 相互的ケア関係が生まれているとする.

... 存在の繕いを、あるいは支えを必要としているひとに傍らからかかわるその行為のなかで、 ケアにあたるひとがケアを必要としているひとに逆にときにより深くケアされ返すという反転が。より強いとされるものが、より弱いとされる者に、かぎりなく弱いとおもわれざるをえない者に、深くケアされるということが、ケアの場面ではつねに起こるのである。(鷲田, 2014)

 逃げ帰るように帰国してから, わたしはこの臨床哲学的視点からみる相互的ケア関係の存在を感じざるをえなかった. つまり, わたしたちが「ケア」にあたっているとき, わたしたちも同様に「ケア」され返されていた. 職員ひとりひとりが, 自らを社会福祉に向かわせた原風景を内在させており, そこに図らずとも子どもたちは様々な方法で触れ, わたしたちをケアしていたのだった. そうして, 心理士もコーディーネーターもただの外国人も, ケアされていた. <よわい>人びとが, さらに<よわい>人びとをケアし, そして彼らがケアをより強く反転する. わたしたちは無意識のうちに, そのケア関係のなかに生きていた.

 

 

 しかし, 「ケア」関係を築いていた相互的かつ円環的なかかわりは, エデュケーターであったひとりの職員の死により, ひどく動揺することになる. 彼女はすでに抗がん剤治療と放射線治療のために離職していたが, 私たちが存在する空間を彼女が去ってから, 彼女の存在そのものの不在に, わたしたちは向き合わざるをえなくなった. わたしたちは, 自らを「ケアする」人びととして画定していた. 少なくとも, 「ケアされる」人びとよりは「ケアする」人びとであると認識していた. そのような状況でわたしたちは, 自分たちへのケアの必要性が圧倒的であり, 自分たちがプライマリーな<よわい>人びとであるという反転した認識を受容せざるをえない状況に直面した. そうして, わたしたちはおのれの弱さを自覚し, 動揺した. 

 彼女とともに働いていた職員のうちほとんどが, 施設に残ってはいなかった. ある者は独立し自らの方法で社会福祉に取り組んでいたし, ある者は離職したのちに異なる部署に復帰したり, ある者は事務室のきしむ椅子を捨て出身国に逃げ帰り, 類似した社会福祉ともメキシコシティとも距離を置いていた. 連絡すらまばらにとる程度になっていたわたしたちは, ふたたびケア関係を必要としていた. わたしたちは, それをわたしたちのなかに求めていた. 

 

 しかし, わたしたちはいまだに求めるケアを受け取ることができていない. 皆で一度集まってケア関係を再構築することが可能ではあるはずだし, また何人かは「集まりたいね」などとこぼしてはいるものの, それはいまだに実現していない. 誰も先陣を切って<よわい>人びととしてケアを求めることができていないのだ. わたしたちの<よわい>人びとらしさ, がそこに現れているということもできるかもしれない. わたしたちは, ケアする <よわい>人びとだ. ケアを提供しながら, 同時に<よわい>人びととして無前提にケアを受け取る人びとだ. 彼女の死から数週間経ち, わたしたちは徐々にそれに気づきはじめている.

 そうして, 実際にケア関係を再構築することができれば, わたしたちは彼女の存在の不在を, 自分たちから抜け落ちたものとしてみるのではなく, その不在を認識し, 不在の存在をみずからに内包することができる. 彼女がわたしたちに残したものが, 彼女の不在を覆うものであるということを本質的に理解することができる. ケアする<よわい>人びとであるわたしたちが, みずからを<よわい>人びとして画定するのにあくせくしている様を, ソーシャルワークをわたしに教えてくれた彼女は苦笑いして眺めているのかもしれない. 

 

 

参考文献

東畑開人 (2019) 『居るのはつらいよ ケアとセラピーについての覚書』 医学書院.

鷲田清一 (2014) 『<弱さ>のちから ホスピタブルな光景』講談社.